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2025/03/03 21:12
『――私にはあなたしかいないの!』
テレビから聞こえてきた声に頭を上げる。ポロポロ涙を流しながら、すがるように抱き付く女。ためらいながらも抱きしめ返す男。
この手のドラマが素直に見られなくなったのはいつからだっただろう。
(あなたしかいない、ね…)
心の中で呟いて、思わず苦笑いが漏れる。あの頃の私は、それが疑いようのない真実だと信じていた。あのどうしようもない男が、自分の“運命の相手”だと。
もしもタイムマシンがあったなら、当時の私を引っ叩いてでも止めるのだけど。
私にはこの人しかいない。そう思って結婚した。今思えば結婚前からかすかな違和感はあったのだけど、当時の私は見て見ぬふりをしていたんだと思う。違和感が確信に変わって、別れるまではあっという間だった。現実世界の“運命”なんてそんなものだ。
大きなお腹を抱えて家を出たときは、不安で、悔しくて、毎日のように泣いていた。
いや。よく考えたら、娘が産まれたあとも、保育園に入れて働き始めるようになってからも、事あるごとに泣いていたような気がする。
家事と子育てと仕事。すべてを要領よくこなすなんて無理なのはわかりきっていて、でもやるしかなくて、毎日生きるので精いっぱいだった。いつの日からか涙は出なくなっていた。
「この俳優最近よく見るよねえ」
「へー、そうなの?」
「CMもいっぱい出てるよ」
隣に座る娘の声に、現実に引き戻された。
昔は手がかかって仕方なかった娘も、もう社会人2年目だ。家から通えるところに就職したのでまだ“独り立ち”とは言えないけれど、少ないお給料を毎月ちゃんと家に入れてくれるし、この間は誕生日にちょっといい店に連れて行ってくれた。
まだまだお子ちゃまな部分はあるけれど、とても立派に育ってくれたと思う。ちらりと見やった横顔は、自分で言うのも何だけど昔の私にそっくりな美人さん。
あの男の血が本当に半分も入っているのだろうか、などと考えて口元が緩んだ。
ふと、娘の耳に見慣れないピアスが付いているのに気づく。
「そのピアスどうしたの?」
なんとなくこの子の好みと違う気がしてそう訊くと、ニマニマと隠す気のなさそうな照れ笑い。
「んー…カレに、もらった」
「えっ、もしかしてこの間言ってた人?もう付き合ってるの?いつから?」
「えー、3ヶ月ちょい、かな」
幸せそうに頬を赤らめながらの報告に、なぜだか胸がざわついた。
お付き合いを始めた報告がなかったから、ではない。
娘が誰とも知らぬ男と一緒になって、この家を出ていく姿を想像したら、急に血の気が引いたのだ。
あの男と別れてから、この子を幸せにすることが私の人生の目標になった。
この子の幸せが、私の幸せだったはずだ。なのにどうして。
(この子が結婚して独り立ちしたら、私は…どうなる?)
娘が隣にいない生活が全く想像できなくて、娘の幸せを素直に喜べなくて、頭が真っ白になった。
あれからしばらく考えた。
娘のこれからのこと、私のこれからのこと、そして「私自身の幸せ」について。
あの子を産む前、結婚する前、私は何に幸せを感じていた?
どうなれば幸せな人生だと思っていた?
記憶を辿っても、モヤがかかったように答えは見えてこない。
娘のために全てを捧げた人生が間違いだったとは思わない。
でも、このままでは私にとっても娘にとっても良くないことだけは確かだ。
なんとかしなければ。そう思うけれど、具体的に何をどうしたらいいか検討もつかない。
そんなときだった。彼女からランチのお誘いが来たのは。
学生時代からの付き合いで、奇遇なことにシンママ仲間でもある親友だ。
娘が産まれる前からずっと、苦楽を分かち合ってきた“戦友”とも言える存在。
そういえばここ数ヶ月、お互いの都合がうまく合わなくて会えていなかった。
彼女と話せば、この得体の知れない不安と向き合う勇気が湧くかもしれない。
「うーん…なんか違うな…」
クローゼットから服を引っ張り出して、とっかえひっかえ鏡の前で合わせていく。
別に今さら気を使う相手でもないのだけど、こういう機会に着ていく服がサッと決まらないのが歯がゆい。
昔はファッションモデルを夢見たこともあったほどオシャレが好きだったのに、今では服を買いに行くのすら面倒で、毛玉の目立つくたびれた安物ばかり。
(――ああ、そうだ。昔は服を買うのも、メイクも、髪を巻いてセットするのも全然苦にならなかったな)
長く閉ざされていた記憶の扉の向こうで、昔の私が鏡を前に楽しげに笑っていた。
「…やば!もうこんな時間!」
物思いにふけっているうちに、かなり時間が経ってしまった。
メイクは手抜き、服は“無難”、髪はセットする時間がなくて適当にくくっただけ。
これでも普段スーパーに行くときよりは多少がんばっているんだけど。
待ち合わせの店に、5分ほど遅れて着いた。
それらしい人影を探してキョロキョロしていると、思いの外近くから声が聞こえる。
「おーい、こっちこっちー」
顔を見て思わず二度見してしまった。
間違いなく本人なのだけど、なんというか、いい意味で別人のように感じる。
「ごめーん!遅れたー!」
「そんな待ってないよー。何頼む?」
私とは正反対に、おっとりふわふわ穏やかな性格の彼女。
間近で見て改めて、数ヶ月前に会ったときとかなり変わった雰囲気に驚いた。
服装もそうだけど、なんとなく肌のツヤもいいような。
前回までは今の私と大差ない格好をしていたのに。
「ねえ、なんか今日めっちゃ気合入ってない?その服どこの?めっちゃ似合ってる!てか化粧品変えた?」
「えー、そんな褒められたら照れるなー」
おそらくおろしたての服に身を包み、きちんとメイクもしてニコニコ笑う彼女は、お世辞抜きに5歳は若返って見えた。
きっと髪や肌の手入れもきちんとしているのだろう。
表面では笑顔を保ちながら、シャツの裾の毛玉をこっそり指でちぎった。
それにしても、一体何がきっかけでこんなにオシャレになったのだろう。
彼女の小指にキラリと光る指輪を見つけて、さらに謎が深まる。
「その指輪もいいじゃん!でもアクセサリーは苦手だって言ってなかったっけ?」
「あー、うん。これはなんというか、おまじない的な」
「おまじない?」
「実は…今ちょっと、いい人いてね」
今日はその話を聞いてほしくて、と笑う彼女は、とても幸せそうだった。
「恋愛するのなんて久しぶりだからさー、何か背中を押してくれるものに頼りたくなって。こんな年になって?って自分でも思うけど、息子も応援してくれてるから」
ああ。いいな。私もこんなふうに笑いたい。
私も、もう一度恋をしてみたい。
もう一度、心から誰かを好きになってみたい。
娘のことは抜きにして、私自身が幸せになりたい。
(…でも、今の私にできる?)
無理やり押し込められたパンツの上からはみ出して、居心地悪そうにしている腹の肉をつまむ。
彼女の惚気話をひと通り聞いてから、今抱えている気持ちを打ち明けた。
『恋は“する”ものじゃなくて“落ちる”ものだから!できるかできないかはとりあえず脇に置いといて、やりたいと思ったことを片っ端からやってみたら?』
家に帰ってから、彼女の言葉を反芻する。
そう言われても、今の自分のやりたいことが何なのかもよくわからない。
「まあでも、とりあえずはこれかな…」
彼女が着けていた指輪はネットショップで買ったらしい。
教えてもらったサイト名で検索すると、目当ての指輪がすぐ見つかった。
チラリと自分の小指を見る。昔から指が太くて、指輪が似合わないことが密かなコンプレックスだった。
彼女には似合っていたけど、私が着けたら残念な感じになるかも……
『やりたいと思ったことを片っ端からやってみたら?』
フラッシュバックする彼女の声、幸せそうな笑顔。
そうだ。似合うか似合わないかじゃない。
私が、私のために、私が欲しいと思ったから買うんだ!
ほんのささいなことだけど、「自分のために、自分で選んだジュエリーを買えた」ことで少し自信が沸いてきた気がする。
ひと息ついてから部屋を見回して、散乱した衣服に眉をひそめた。
(まずは、あっても着ないボロボロの服を処分して、新しくよそ行きの服を買って、美容院にも行きたいかも。それから……)
フツフツと、少しずつ“やりたいこと”が浮かんでくる。
まずはできることを片っ端から。
そうこうしてるうちに、“本当にやりたいこと”が見つかるかもしれない。
また昔みたいな恋ができる日だって来るかもしれない。
そんな希望の光が、熱を帯びて胸の中で輝き始めていた。
おろしたての服に身を包み、きちんとメイクにもヘアセットにもきちんと時間をかけて、あの日買った指輪を小指にはめて。
ショッピングモールの鏡に映る自分は、久しぶりに「イケてるじゃん」と思える仕上がりだった。
不思議なもので、自分に自信が持てると、いつもの見慣れた町並みさえも輝いて見える。
特に用事もないのに、オシャレをして出かけてみたくなったりする。
何の根拠もないけれど、なんだか今日はいいことが起こりそう。
ルンルン気分で歩きながら、指輪をはめた小指に目をやる。
…えっ、あれ?指輪どこいった?
ウソでしょ?サイズぴったりだったからそんな簡単に外れたりしないはず…
「あ、あの。指輪落としましたよ」
聞き慣れない声にパッと振り向くと、私の指輪を手にした男性。
――恋が、動き出す音がした。