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2025/11/22 16:02

1.ワンルームの深海
「……もう一度だけ、歌ってみようかな」
深夜二時。静まり返った六畳一間のワンルームに、私の声だけが頼りなく溶けていった。 大学の講義、深夜までの居酒屋バイト、そして帰宅後の録音。 毎日がその繰り返しだ。机の上に置いた安物のマイクスタンドが、街灯の明かりを反射して冷たく光っている。
録音アプリの赤い丸ボタンをタップし、スマホの前で深く息を吸い込む。 けれど、喉の奥に何かが詰まったようで、思うように声が出ない。
「歌手になりたい」 かつてはキラキラ輝いていたその言葉が、今では呪いのように私を縛り付けている。 現実を知らない子供の夢だと笑われたあの日。 就職活動のエントリーシートと楽譜の狭間で、自分が何者なのかわからなくなる焦燥感。
SNSに投稿した動画の再生数は、いつも三桁止まり。 たまに四桁に行けば良い方で、コメント欄はいつも白紙だ。 画面の向こうには数え切れないほどの人間がいるはずなのに、私の声は誰の耳にも届いていない。まるで深海で叫んでいるみたいだ。
「才能ないのかな。上手い人なんて、星の数ほどいるし」
独り言が、重たい鉛になって部屋の床に沈んでいく。 もう、潮時かもしれない。 指先が震え、アプリを閉じようとしたその時だった。
2.誓い
眠れぬまま、逃げるようにスクロールしていたインスタグラムの画面。 流れる煌びやかな日常の中に、ふと目が留まる一枚の写真があった。
複雑に、けれど美しく結ばれた、お守りのようなネックレス。 そこに添えられた一文が、ひどく乾いた私の心に雫のように落ちた。
「KANOU − 願いをまとう −」
『願いをまとう』。 その響きを心の中で反芻した瞬間、冷え切っていた胸の奥が、じわりと熱を持った。 それは誰かに背中を叩かれたような、あるいは「まだ終わっていない」と叱咤されたような、不思議な衝撃だった。
気づけば、吸い寄せられるようにボタンを押していた。 不思議と迷いはなかった。 まるで、暗闇の中で立ち尽くしていた私が、前に進むために必要な「鍵」を、ようやく見つけたような感覚だった。
数日後、ポストに届いた小さな箱。 震える手で蓋を開けると、そこには静かに光を集めるネックレスと、お守りがデザインされた封筒と便箋が入っていた。
私は導かれるようにネックレスを手に取り、鏡の前で首にかけた。 ひんやりとした金属が肌に触れた瞬間、背筋がスッと伸びるような感覚が走った。 鎖骨の間で揺れる小さな結び目。それはまるで、バラバラになりそうだった私の心を、もう一度「カチリ」と繋ぎ止めてくれたような重みだった。
鏡の中、ネックレスをつけた私が、泣きはらした目でこちらを見返している。 『まだ、終わらせたくないんでしょう?』 胸元の光が、そう問いかけてくるようだった。
その温もりに促されるように、私は便箋を広げペンを執った。 今の私の願いはなんだろう。有名になりたい? お金持ちになりたい? ……違う。 もっと根本的で、もっと切実な叫び。
首元のネックレスを左手でぎゅっと握りしめながら、私は魂を削るように文字を刻んだ。
未来の私へ。
今の私は、暗いトンネルの中にいます。 誰にも期待されず、誰にも届かず、何度もマイクを置こうとしました。 自分が無価値な人間に思えて、夜が来るのが怖いです。
でも、今このネックレスをつけて、やっと気づきました。 私はまだ、歌うことを愛してしまっている。 どんなに無様でも、歌っている瞬間だけは、私が私でいられる気がするんです。
だからお願い。 この手紙を読むあなたが、まだ歌っていますように。 私が今日流した涙を、あなたが「無駄じゃなかった」と笑ってくれますように。 どうか、この声を信じ続けてください。
書き終えた文字は震えていたけれど、そこには確かな熱があった。 ネックレスを握る手に力を込める。 それは、「私はまだ諦めない」という、小さくても確かな誓いだった。
3.小さな光の連鎖
そこからの日々が劇的に変わったわけじゃない。相変わらず現実は厳しく、バイトと課題に追われる日々だった。 けれど、私自身が変わっていた。
喉が震えて歌えない夜は、首元のネックレスに触れた。 肌に馴染んだその感触が、あの夜の手紙を、あの誓いを思い出させてくれる。 「大丈夫、私はひとりじゃない。未来の私が待っている」
そんな祈りを込めて歌い続けたある日。 投稿した歌に、ポツンと一件のコメントがついた。
『辛いことがあって眠れなかったけど、あなたの声を聞いて、久しぶりに泣けました。ありがとう』
たった一言。 けれどその一言で、私の部屋の空気が変わった気がした。 世界中の誰でもない、たった一人の「あなた」に届いた。 胸の中でくすぶっていた小さな炎が、風を受けて燃え上がるのを感じた。
そして、季節が変わる頃。一通のDMが届く。 「あなたの歌声には、人の心を震わせる力がある。来月開催される音楽イベントのステージで、歌ってくれませんか」
画面が涙で滲んで読めない。 スマホを抱きしめて、私は子供のように声を上げて泣いた。 暗い部屋の片隅で、ずっと一人ぼっちで歌っていた私の声が、外の世界への扉をこじ開けたのだ。
4.願いの音
そして迎えた、ライブイベント当日。 見慣れた大学の講堂とは違う、プロの機材が並ぶライブハウス。 熱気とタバコの匂い、そして見知らぬ大勢の観客。 「次は、SNSで話題のシンガーです」 MCの声が聞こえ、心臓が早鐘を打つ。足がすくむ。 ここは私の部屋じゃない。失敗したらどうしよう。
逃げ出したいほどの緊張。 その時、胸元で「KANOU」がスポットライトを反射して、小さく、けれど強く輝いた。 首元に感じる確かな重みが、あの夜の誓いを呼び覚ます。
『大丈夫。今日の私は、あの日の私が夢見た未来の私だ』
私はネックレスを一度だけ強く握りしめ、ステージの中央へと歩き出した。 マイクを握る手に力がこもる。 息を吸い込むと、会場のざわめきがふっと遠のいた。
「聴いてください——『願いの音』」
最初の一音を発した瞬間、世界の色が変わった。 不安も、恐怖も、過去の悔しさも、すべてが光の粒になって溶けていく。 私の声が空気を震わせ、初めて会う人々の心臓に触れるのがわかる。 最前列にいた女性が、涙を拭うのが見えた。
サビに差し掛かり、声を張り上げる。 私も泣いていた。 悲しいからじゃない。 あまりにも視界が鮮やかで、あまりにも今が愛おしくて、涙が止まらなかった。
歌い終えた瞬間、静寂。 そして、地鳴りのような拍手が私を包み込んだ。 部屋の壁に吸い込まれるだけだった私の歌が、今、確かに誰かの心を揺さぶっている。
5.時を超えるアンサー
鳴り止まない拍手の中、私は滲む視界で眩しいライトを見上げた。 その光の向こうに、あの日のワンルームが見えた気がした。
膝を抱えて泣いていた私。 「才能ないのかな」と呟いていた私。 それでも、ネックレスを身につけ、震える手で手紙を書いた私。
私は胸元のネックレスに手を添え、心の中でそっと返事を書いた。
あの日の私へ。
聞こえていますか? 今、あなたを包んでいるこの拍手が。
あなたは「暗いトンネルの中にいる」と書いたね。 でも、見て。そのトンネルは、この最高の景色に繋がっていたよ。
あなたが諦めずに一歩を踏み出したから。 あなたが泣きながらでも、このネックレスにお守りのようにすがって、歌い続けてくれたから。 今日の私が、ここにいます。
あなたが信じた声は、見知らぬ誰かの心を救い、そして何より、私自身を救ってくれました。
ありがとう。 諦めないでいてくれて、本当にありがとう。
涙の粒がステージの床に落ち、ライトを弾いてきらりと光った。 それは過去と未来、私と世界を結ぶ、確かな「願いの音」だった。
「ありがとうございました!」
深々と頭を下げた私の胸元で、KANOUが誇らしげに輝いている。 私の物語は、この広い世界で、ここからまた新しく始まるのだ。